
どもども、しろ~時々シロップです。
去る6/6に国際医療福祉大学 福岡看護学部にお招きいただきまして、
僕と白血病 “病を生きる力へと変える~”
という演題で、90分の講演をさせていただきました。
講演をさせていただきました会場の様子です。

※写真掲載の許可いただきました。
今までブログでは講演内容の公表はあまりしてこなかったのですが、
今回ブログへの講演内容の掲載、写真、学校名の公表については、
国際医療福祉大学 福岡看護学部のご承諾をいただきまして、
ブログに掲載をさせていただく運びとなりました。
抜粋ですので、表現が下手なところはお許しください。
しかし、9000文字オーバーの記事なんて久しぶりに書きました。
講演の冒頭、機械のアクシデントで10分ほどスタートがずれこんだのですが、
クラウン(道化師)は、サーカスで場面転換の時間をつないだり、
出演者のトラブルをフォローしたりするのが役目のひとつ。
おかげで、クラウン・シロップ(私ね)のスイッチがカチッとONに入りました。

講演の途中でネタにするつもりだったバルーンアートとボールジャグリング
をしょっぱなからご披露させていただき、学生さんたちも笑ってくれたし、
私も緊張がほぐれて会場の雰囲気も学生さんのつかみもOKって感じになりました。
いや~、ピンチがチャンスでしたね!楽しかったです!
講演の演目は下記のとおり盛りだくさんな内容でしたが、
90分間まじめに聞いて下さった看護学部3年生の学生のみなさんにとても感謝です。
ちなみに、およそ100名近い学生さん、そして5人の先生方が傍聴されてましたので、
とっても緊張しましたが、みなさまとご縁があったこと、とても有意義で
貴重なお時間をいただけたことをこの場をお借りして、御礼申し上げます。
学生のみなさま、先生方、大変にありがとうございました。
僕と白血病 “病を生きる力へと変える~”【主な演目】
★前置き
★対話
★肩書・プロフィール
★小児がんとは?
★白血病との出会い
★兄からの告知~君と白血病
★失った仲間、友人たち
★生老病死=四苦
★病は変化する
★病気と向き合うひとつの命
★死を意識していますか?
★不変なものは…
★医療者を育てる“病”
★医療現場のデジタル化
★SmileDaysとは?
★SmileDaysの目的
★SmileDaysの活動や自助組織の必要性
★小児がん経験者たちの社会活動
★がん経験者の結婚・出産
★生きていく不思議死んでいく不思議花も風も街も みんな同じ
★宿命を使命に変えていく
★クラウン活動やにこにこスマイルキャンプin九州の紹介
★おしまいに…
今回のブログの記事はいつも以上にとても長いですから、関心のある方以外は、
ちょっと読むのがしんどいかも。
講演内容のおおまかな内容はこのあとに書き残しておきますね。
演題は、聖路加国際病院小児科医で副院長の細谷亮太先生の翻訳した
プレパレーション( 治療に挑む白血病患児の心の準備 )のための本
“君と白血病” の…パクリです(笑)細谷先生ごめんなさい。
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でも、この“君と白血病” という本でプレパレーションを受けた
一人の白血病患者がその後の人生をどう生きてきたかという
アンサーのつもりでタイトルにしました。
細谷先生に喜んでいただけると嬉しいですけど。
現在治療中のC型肝炎のため入院、外来に通う中で感じた過去と今の病院の変化や、
患者が感じている医療への不満や違和感についてや、
“白血病”と縁をし、告知・プレパレーションから28年。
そしてSmileDaysの活動を通してさまざまに経験したことや、
たくさんの仲間たちとの出会い、私の想いを発信し続けてきた
このブログの立ち上げから5年…これらの集大成(大げさかな)という講演となりました。
6歳で白血病を発病して、20歳の長兄から、
「しろ~お前の病気は白血病と言って、これから3年間とてもツラくて、
強い薬も、痛い検査もやらないといけない。
ちゃんと治療をしないと死ぬ病気なんだ…頑張れるか?」
という告知をうけて、
「兄ちゃん、僕は死にたくない」
といったやり取りの告知でしたが、その後に目を通したのが、
“君と白血病”という本でした。
6歳でしたで、さすがに書いてあることの意味がほとんど理解できて
ませんでしたが…いまでも、その本を開いたときのこと、
大変な病気になったんだな…と感じたことは今でも覚えています。
白血病を克服し、その後は当時の輸血が原因である晩期合併症のC型肝炎、
そして最近になってHTLV-1【成人T細胞白血病(ATL)の原因ウイルス】
のキャリアと判明したことなど…。
私の生涯が“病”という宿命と向き合い続けなければならないという覚悟と、
その宿命と正面から立ち向かい自分の使命に変えていこうと心に決めたこと。
病と向き合う当事者のひとりとして、さまざまな困難に打ちのめされてきたけど、
それを乗り越え、自分を輝かせて今の笑顔があるということ。
そのことを講演のテーマの中心において、お話をさせていただきました。
…と、ここまででかなり長文ですが…
以下、講演内容の抜粋です。
★前置き
こうした活動をするにあたって、医学的・統計的な知識を
日々勉強していますが、けっして専門家でも医療者でもありません。
私は、病気の一体験者にすぎません。
今からお話をすることは、私の個人的経験からのお話です。
聞いていただく方々それぞれの価値観と合わないことも、共感いただけることも
当然あると思います。
正しくないことを口にすることもあるかもしれませんのでご承知おきください。
私は講演を通して出会う看護学生、医学生、教職員等の方々の中から、
◆ひとりでも小児がんのことに感心を持ってほしい
◆小児科勤務を希望される方がひとりでも増えてほしい
◆あらゆる分野の方が私たちのよき理解者、賛同者として共に活動をしてくれる人が増えてほしい
◆聞き手の方々の中に、身近な方の病気や障害、死と向き合っている苦しい心があるならば、
講演でのご縁を通して少しでもその苦しみが軽くなるきっかけになれば…
…と常々願っています。
★対話
この講演で、私はこの場にいらっしゃる一人ひとりへ対話する思いで話をします。
あるとき、会話と対話の違いがわかるか?と先輩に聞かれた。
私はその場で即答できなかったが、その先輩からこう教わった。
会話は日常の挨拶などのうわべの言葉のやりとり。
対話は、一回一回、瞬間瞬間の出会いを大切にする誠実な心が相手に届き、
そして、相手の心を理解しよう、相手には心から納得してもらえるように
いま何がひっかかっているのか?どうすれば相手の心に寄り添えるか…
そのことへ真剣に向き合う心の置き方が対話の力を育む。
手っ取り早くシンプルに対話を説明するなら、恋愛。
好きな相手の事をもっと知りたい、自分の事をもっと知ってほしいと
考え、行動し、想いをのせて言葉を交わすことが対話力の成長の近道なのかも。
だから、恋愛を面倒くさがらないで。
★肩書・プロフィール
情熱と行動の九州男児 34歳
1978年生まれ 6歳の時に急性リンパ性白血病を発症。 兄から告知。
3年間の化学治療(放射線治療と骨髄移植はしていません)を経て20歳まで経過観察。
白血病を克服(寛解)する。
★白血病との出会い。
4~5歳の頃まで股関節の骨にペルテス病を患って入院。
退院後も足に負担をかけないように、保育園に通う時は歩行補助装具を着用しての生活。
いつもバカにされて、悔しくて、うまく走れない足で追いかけるけど追いつかなくて…。
でも、保育園では普通の子どもとして扱われ、寂しかったり悔しい思いもたくさんしました。

小学校入学前に歩行補助装具もようやく外れて、1984年小学校へ入学。
フツーの小学生でいるはずだったけど、夏休みの8月中旬頃から頻繁に
鼻血が出るようになった。これが白血病の前兆でした。
そして10月31日この日は小学校でお祭りがあって、下校中に学校の敷地内で
貧血をおこして倒れそのまま病院へ運ばれる。
血液検査で異常が見つかり白血病と診断される。
数日後に専門治療できる久留米大学病院までドクターカーで搬送される。
朦朧(もうろう)とする意識の中で、自分に何が起きてるのかを
理解できぬまま様々な検査を受けたがそのことがとにかく不安で怖かった。
骨髄の検査“マルク”と呼ばれる骨髄穿刺(こつずいせんし)を受ける。
腰の骨に太い針を刺して、骨の中にできている骨髄を採取する
かなりの激痛と恐怖を伴う検査を意味もわからずに連日やられる。
不安と恐怖から身も心もボロボロになっていった。
★告知
病名が判明し、検査の結果から治療方針が決められた時、
20歳の長兄がこれから始まる私の過酷な治療をドクターと話し合い、
「意味もわからないで過酷な治療は治療は続けられないだろう」との判断から、
両親の反対を押し切って兄が私に告知をした。
兄の告知を受けてからの私は、「死にたくない」と思うばかり。
★失った仲間、友人たち
私は1ヶ月に1度、外来へ行って検査後に1週間入院して化学療法。
残りの3週間は自宅療養をする治療が3年も続いた。
病棟で仲良くなったこどもたちといつも遊んでました。
時には、研修医や、医学生が遊び相手になることも。
子どもが苦手な医学生なんかがくるととりあえず遊ぶけど、帰ったあとに
子ども同士で交わす言葉は「あの人、子どもが嫌いなんだね」なんていう
大人も驚くようなことを実は子ども同士で言ってたりするんですよ…。
子どもって感受性が豊かでストレートですから怖いです。
治療をしている期間に仲良くなった友人達とたくさんお別れがありました。
同じ部屋で同じ治療をしている子たちが次々と亡くなっていく。
昨晩いたのに、朝にはいなくなったりして。
次第に自分も「朝、自分は本当に目が覚めるだろうか?」
「次はきっと自分が死ぬんじゃないか…」死への恐怖から眠れない日々もあった。
★生老病死(仏教用語でまとめて四苦という)
生老病死(しょうろうびょうし)はあらゆる生命が逃れることのできない困難。
植物も、動物も、星も、私たち人間も。
“生”は生まれることの苦しみ、そして生きていくことの苦しみ。
人生は嬉しいこと、楽しいことよりも、困難の方がはるかに多い。
“老”は老いていくこと。時間は止まらない。
私たちはいつまでも若くいたいと思っていても体時間とともに老いていく。
詩人 柴田トヨさんの著書などを読むと、体の老いと心の若さについて
とても考えさせられます。
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“病”人生の後半で大病などに直面する人の方が多いかもしれないが、
私たち小児がん経験者は人生のはじまりにちかいところでその困難と直面してきた。
病=困難だが、病そのものがはたして不幸なのか?否か?
さまざまな価値観や哲学を通して見つめても、この人の言うのがぜったい正解!
ってのがありません。
私個人としては、その答えはいつの日か見つかるもの、わかるもの…ではなくて、
いま、自分が受け止めたありのままの苦痛も、悲しみも、怒りも、
病を乗り越えてはじめて感じるささやかなことへの幸福や感謝も、
感じたその“時に”納得する答えがあって、その瞬間からまた新しい悩みと、
その答えを探しはじめるその行動の繰り返しそのものが大切だと感じます。
“死”必ず迎える生の最期。病だと余命宣告をうけて心の準備ができることもあれば、
事故や災害などで突然に死を迎えることも…。
死を迎える当事者も、その家族や身近な人達も大きな影響を受けるし、
深く“死”と向き合い様々なことを考えるきっかけになる。
死がまわりへ与える影響力はとても広く大きい。
誰かの死を通して自分の生き方を見つめたり、死について考える。
話がズレますけど、アンパンマンの歌詞って生死感の本質ついてますよね…
★病は変化する
その昔、世界中で流行したペストや天然痘など人の外から体に入り込む
感染症という病が多くの命を奪っていたが、医学の進歩で感染症を乗り越えた
人類は自らの身体から発生して自分の体を蝕む“がん”と向き合う時代を迎えています。
今、日本では成人の2人に1人ががんに罹り、そのうち3人に2人はがんを乗り越えるが、
がんの治療後は後遺症などから日常生活や仕事に就くことが困難な人も多く
生きていくことへ苦痛を感じることもある。
★病気と向き合うひとつの命
“病”って、人生において遅かれ早かれどこかで必ず縁をするものだと思うのですが、
僕たちは人生の始まりに近いところで早く縁をしてしまった。
私にとって、白血病は生死をかけた大きな病でした。
“白血病”と聞けば=死ぬ病気と思う方も多いはず。
小児がんも、現在は6割ちかくの子どもたちが乗り越えられる時代となったけど、
私が入院していた時代は7~8割が亡くなる時代でした。
現代は、がんを乗り越えて活躍している方もたくさん出てきましたが、
TVのワイドショーなどで、芸能人の●●さんが●●がんで亡くなった。
そんなニュースの影響もあるのか、世間の中でがんはまだまだ死に至る病との認識の方が
色濃いのかもしれません。
今から27年も前のこと。
私の入院していた当時、現場の医療者達は私たち小児がん患者に対して
ただただ模索の日々でした。
「この薬を使って効果があるのか…とにかく様子をみましょう…」
医者の口からは、このような言葉しかでてきません。
当時、私たち小児がん患者に対して「絶対に治ります」
って断言できる医者なんていなかったと思います。
私の母は、私が危険な状況にあるのか、直接聞かなくても先生や看護師さんたちの
目を見れば、状況がわかった…。
ふと、横にいる私(しろ~)の顔を見ると、あなたは私の目をじっと見て、
自分の状況を私の目を見て探っていると感じて怖くなった。
子どもの前で不安な顔をしてはいけないと母はその時から心に誓った。
医療者も患者も家族も、皆が“病”という過酷な現実と向き合い
病棟の中は病と闘う戦場のような毎日でした。
最近になって、母と交わした昔話。
「もうすぐわが子が亡くなるというお母さんと私の母が深夜に二人で
病棟から離れたところへ行った。
あの子が死んだら私も生きてはいけないと嘆くお母さんを私の母が
声にならない声で涙ながらに抱き合ったこともあった…」
親子でこんな話ができたのも、今の私が小児がんと向き合う生き方を
歩んでいるからこそでもあったりして…。
私が自分の病と向き合うことを避けていたらこんな会話もなかっただろうな。
★死を意識していますか?
私は、病気との縁から、今日まで毎日“死”を意識して生きています。
でも、それはネガティブな発想ではないです。
人は生きていることを当たり前に感じるが、昨年の震災やで犠牲になった方々も、
ニュースで取り上げられるような交通事故や災害や事件の犠牲者も、
命を落とすその直前までは、まさか自分が今日死ぬなんて想像もつかなかったでしょう。
いつもと変わらない日常を過ごしていたはずです。
私たちは、生と死がいつも隣り合わせにあるということを意識する必要があると
感じます。
死を意識して生きることから、生への感謝の心はできると思うのです。
★不変なものは…
時代の進化とともに医学の進歩、医療機関の近代化、闘病者の環境の
様々な改善がなされ日進月歩で飛躍的成長を遂げている。
しかし、病との縁から沸き起こる不安や、痛み、死への恐れ、
惨めさ、悲しみ、絶望感など、人の心の中に沸き起こる本質は時代が
何年、何十年、何百年と経っても“不変”だと私は思うのです。
医療とは、そこにこそ目をむけ、耳を傾け、心を寄り添わせ、
手を差し伸べるものではないでしょうか…と患者として感じている。
★医療者を育てる“病”
病気と向き合っているのは当事者だけでしょうか?
その家族も、治療のために関わる医療者も、支える周囲の人々も皆、
根底には“病”と向き合い、苦悩し、努力し、成長をしていると気づく。
私は父親をすい臓がんで亡くしていますがそのエピソードを例に話すと
父の主治医となった医師は不器用で口下手なまだ若い人でしたが、
いつも一笑懸命な姿に、父は微笑ましく接して、とても仲よくしていました。
治療の事だけでなく、世間話も、身の上話も良くしていて
とても良好な医師と患者の関係を築いていました。
しかし、ある日父は体調を大きく壊して再入院。
一度はオペで病巣を摘出し回復したに見えた父でしたが、がんが全身へ
転移していることが発覚し、私たち家族にだけ、その事実が知らされた。
いつものように病室に来たDrは、いつもと違う態度で、
とても暗い顔で病室にきて言葉もろくに交わさずそっけなく病室から出て行った
。
病室から母が飛び出して追いかけ、そのDrを軽くどつきながら叱っていた。
母「先生、あなたどうしてお父さんの前でそんな態度をとるの!」
すると、Drは声を震わせて答えた。
Dr「手術で治ると思ったのに、転移して、何も打つ手がなくて、悔しくて…すみません」
母「そんなことは私たち家族が一番知ってる!でも、私たちはお父さんの前でそんな顔はしない!
お父さんの最期を看取るまで、今まで通りにできる!!!?」
Dr「はい…」
その次の日から、Drは今までどおり元気に笑顔で父の病床へ通ってくれた。
父の亡くなる2日前、Drから延命措置をするかしないかを家族で話し合って欲しいと
言われた。
私たち家族は10分もかからずに、延命措置はせずに静かに息を引き取ることを
家族全員で望みました。
その意思決定の早さにあっけにとられた感じで、目を白黒させてるDrだったが、
「家族の絆の強さを改めて感じました…承知しました」と引き受けてくれた。
父の最期の時、父の永眠を宣言したDrは、最期に私たち家族に深々と頭をさげて
「お父さんからも、そして、家族のみなさんからも、ほんとにたくさんのことを
私は教えていただきました…」ありがとうございました。このことは生涯忘れません」と。
私たちも家族も、先生の一生懸命な姿勢に深々とお礼を言って病院を後にした。
私は、このDrとの出会いから、どんなに経験が浅くてもまだまだ力不足だと感じても、
“今の自分にできる精一杯を尽くす”ということこそが、患者そして家族と向き合う
医療者の大切な心であり姿勢なのだと感じた。
きっとそれは医療者だけでなく、あらゆる職業でも共通することだとも思う…。
★医療現場のデジタル化
C型肝炎の治療で今年3月に入院したときのこと。
電子カルテを導入した病棟で、若い看護師たちはワゴンに無線LANでつながれた
ノートPCを載せて病床を巡回していた。
どの看護師たちも体温や、血圧、問診をしながら診ているのは患者の顔じゃない。
PCのモニターだった。患者との対話がない。うわべの会話だけのやり取り。
この違和感は私だけかと思い、廻りの患者さんにも聞いてみたら同じ事を共感していた。
デジタル化に追いつけないのか、病棟の看護師は若い人ばかり。
対話や姿勢ということにベテランな看護師たちはデジタル化についていけず、
外来や開業医の小病院に仕事の場を変えているのでしょうか…。
医療現場のデジタル化そして近代化の波のなかでも、医療の根本である対話力や
ヒューマニズムという患者の心に寄り添う大切なことを忘れないでほしい。
そしてスマホなどの急速な普及から、自分の病気を告知されていない患者たちは、
医療者たちの使っている隠語や、自分に使われている薬が何の病気の治療に
使われているのかを容易に検索して調べることができる時代になりました。
私も自分の病気のことは、自分でいつも調べていますし。
大人だけでなく、子どもたちは大人以上にそうしたデバイスを使いこなしてしまいます。
告知に積極的でない病院などでは、患者に黙ってさえいれば気づかれない、
隠していればわからないだろうということがもう通用しない時代になってきているように思います。
ウソの告知をされた患者が自分の事実を知った時、医療者と患者との間で崩壊する
信頼関係の修復には、何倍もの労力と時間が必要となり、ただでさえ多様化して、
いっぱいいっぱいな業務に余計なトラブルを生み出してしまうのではとの懸念をしています。
デジタル化する医療のなかで人として、組織として新たに、そして早急に
取り組まなければいけない課題となるでしょう。
★生きている不思議 死んでいく不思議 花も風も街もみんな同じ~♪
※千と千尋の神隠し 主題歌 いつも何度でもより~
おっしゃるとおり、そのとおりだと思います。
生きていることは当たり前のようだけど不思議なこと。
そして死はいつも生と隣合わせにある。
私たちだけじゃない。みな同じ。
アップル社の創始者 故スティーブジョブズ氏の言葉にも、
「自分が死と隣り合わせにあることを忘れずに思うこと」
「墓場で一番の金持ちになることは重要ではない。夜寝るとき、
我々は素晴らしことをしたと言えること、それが重要だ…」
との言葉があるのですが、私も同感です。
時代を変えてきた偉人たちが最期を迎え、その死をいくら惜しまれても、
街も、時間も、風も、いつもと変わらずにひたすら動き続ける…。
そんな世の中で、どのように自分らしく生きるか…
“自分のいる場所で自分の命を輝かして懸命に生き抜く”
そのことが大切なのだと思う。
看護師さんってこの国だけでもたくさんいる。
医療者を目指す人たちは毎年いるのです。
たくさんの看護師さんが活躍されている現場へとこれから進んでいく
学生のみなさんには“自分らしさ”を大切にして
仕事場で、社会の中でがんばってください。
この世から決して“あらゆる病は根絶できない”
制圧・撲滅といった言葉が相応しくない病気だってたくさんあります。
もしできたとしたら…医療者、病院は失業するけどその心配はない。
この世から病が無くなることはないのですから。
★宿命を使命に変えてゆく
病気を通して苦しい事や辛い事を乗り越えていくと
それが大きな成長の糧になることを改めて最近感じます。
人生の中で感じる喜びや楽しみは、月日が経つとその場面を思い出すことができても、
その時の感情が甦ることはあまりありません。
でも、辛かったこと、悲しかったこと、死にたいほどに悩み苦しんだことは、
いくら月日が経っても、思い出すと胸が苦しくもなるし、涙も出てくる。
その経験が、自分を強くしてくれていたのだと後になってわかるもの。
私も自分の背負った宿命から逃げたいと何度も思いました。
でも、それが何も解決に至らず、遠回りだけして、ムダに時間を費やして、
さらに自分を苦しめることになると気付かされてきました。
だから、困難からは逃げないで、立ち向かってください。
誰でも悩みは尽きないけど、乗り越えられない悩みなんて自分の前に顕れないはず。
【これら↓は当ブログの記事などで書いてあることなので割愛します】
★小児がんとは?
★SmileDaysとは?
★SmileDaysの目的
★SmileDaysの活動や自助組織の必要性
★小児がん経験者たちの社会活動
★がん経験者の結婚・出産
★クラウン活動やにこにこスマイルキャンプin九州の紹介
★おしまいに…
今日の講演で、私の言葉があなたを笑顔にできるように。
私の体験があなたの希望(光)になるように。
そして私もあなたも自分の宿命が使命に変わるように。
そう願いながら私はこれからも自分の命を輝せて生きたいと思っています。
講演終了後、学生さんたちと記念撮影もさせていただき、感想文も書いていだきまして、
その感想文を帰りの高速バスの車中で読みながら…車酔いしました
学生さんからいただいた感想文の中で、多く書かれていたことを簡単にまとめると、
◆患者さんの生の声を聞くことができてとても良かった。
◆患者だけでなく、家族に対しても、看護師ができることについて考えさせられた。
◆いま、生きていることの素晴らしさに改めて気づいた。
◆対話のできる医療者を目指したい。
◆“人の心”は変わらないということが印象に残った。
◆生死についてあらためて考えさせられた、生きていることが当たり前でない
いつでも死がそばにあるということに気づいた。
◆病や死への恐れも、乗り越えると強く生きる力にもなると知った。
◆医療者を育てているのも“病”という言葉が心に残った
◆困難を乗り越えた人の笑顔はとてもステキだと気づいた
◆患者さんとコミュニケーションを大切にできる看護師になりたい
◆過去は変えられないが未来は変えられるという言葉が心に残った
◆バルーンアートやジャグリングがとても楽しかった(どもども、ありがとう!)
◆父の話で出てくるDrのように真剣に患者と向き合う医療者でありたいと思った
◆よく喋って笑う明るい先生だった(このご意見が私の一番お気に入り!)
実際に講演の場で言葉で表現することと、ここに文字として表現し残すことでは
ニュアンスに違いがあるものですが、大切な講演の機会でしたし、
この講演の記録として記事に書き残させていただきました。
今後もどこかでお呼びいただく機会がありましたら積極的に
講演活動を続けていきたいと思います。
そうそう、講演の中でお話するのを忘れてしまったのですが、
私が3月に入院していた時に、数日間だけ自立歩行が困難で
トイレ介助などが必要な患者さんたちと同じ部屋になりました。
その部屋のおじいちゃん患者さん同士の会話↓
「トイレに行きたくても、看護師さんたちが忙しいと思うと頼みにくいね」
「夜中は人が少ないから特に頼みにくいよね」
「みんな若いけど、優しいし、親切な看護師さんたちだからなおさら申し訳なく思うよね」
「とても感謝しているけど…」
「その都度ありがとうって伝えてるけど、罪悪感も感じるのよね」
看護師さんを必要とする患者さんにとって、看護師さんは感謝されている存在です。
患者さんも、看護師さんも互いにあとほんの少し遠慮せずに
コミュニケーションをはかれたら、もっとお互いに感謝できるのかなと感じました。
国際医療福祉大学 福岡看護学部のみなさま、大変にありがとうございました!
情熱と行動の九州男児
林 志郎より
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