小児がんと向きあう方々とともに…
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誕生報告と小児がん経験者の結婚のこと
2012年05月22日 (火) | 編集 |
どもども、しろ~時々シロップです。

当ブログをいつもご覧いただいている皆様へご報告です。

5月16日(水)21時34分に長男 奏斗(かなと)が誕生しました。
身長50センチ 体重3136グラム
産まれてからの診察で奏斗の体は特に異常なくスヤスヤと寝ております。

ツイッターやミクシーやフェイスブックでは先にご報告させていただきましたので、
たくさんの方から祝福していただき大変ありがとうございました。

ちなみにこの記事を打っているのは、産婦人科の病室で寝ている妻の横(今夜はここでお泊り)です。

出産当日の朝から入院した妻は、陣痛促進剤を投薬されて順調に陣痛がきたのですが、
元から骨盤が小さいかったことと、産道があまり開かず奏斗の頭が産道に引っかかったまま
(つまりシャンプーハット状態)
早くに羊水が流れてしまい、生理食塩水で羊水を補充しながら自然分娩で産まれるのを待っていました。

しかし、どんどん時間だけが過ぎていっこうに産まれず、妻は感染症で熱を出し、
奏斗も次第に心音が弱りはじめたので、やむを得ず帝王切開での出産となりました。

分娩室で私も1時間半ほど立ち会っていましたが、とても苦しい状態で長時間
頑張っていた妻の背中や腰をさすることしかできませんでした。

うかつにも「がんばれ!」って言ったら妻のパンチが飛んできそうでしたので、
それは心のなかで言うことにして…
もう少しの辛抱だよってしか言えませんでした。

さて、
これからも増加の一途を辿る小児がん経験者の仲間たちが結婚に悩んだり、
出産に挑む不安などを乗り越えていくために私たち夫婦の体験が少しでも
参考になればと思い、妻と話し合ってこの記事を公開することにしました。

妻のことはいままであまり事細かには書いたことがなかったのですが、
私の妻は3歳(1990年)で悪性リンパ腫を発症し、
化学療法(抗がん剤)と放射線治療を経験しています。

ちなみに私は1984年に白血病を発症して、
3年間の化学療法のみの治療をして寛解。

私が退院した1987年の秋ごろに、妻が生まれたというわけで、
歳の差がおよそ10歳です。

小児がん経験者の女性が健常なパートナーの方と結婚して出産を経験したケースや、
その逆に小児がん経験者の男性と健常な女性との結婚や出産のケースは聞いたことがあります。

でも、小児がん経験者同士の結婚で、こどもを授かった事例を私もいままで聞いたことがありません。
(公になっていないだけで、もしかすると前例があるのかも…)

妻との交際は一年半ほど。
私が会のリーダーで、妻は会計。
二人ともSmileDaysの組織運営に携わっている身ですので、
いろいろなことへの配慮から仲間内の誰もが知らないところでこそーっと交際していました。
結婚する日取りが決まるまで、Iせんせいも気づかなかったわけで。

私はあれこれとやってますが職業は消防設備士で平日が仕事。
妻は当時、洋服店の店員で週末はほとんど仕事。
二人が逢えるタイミングがなかなか無くて、デートはいつもSmileDaysのイベントや
大学病院での用事が終わったあとに妻の仕事が終わるのを待って、
妻が家に帰る前の深夜のわずかな時間。

私は毎日がとても忙しく、帰宅はだいたい深夜0時前。
毎日のように仕事や用事が詰まっていましたので、
ちゃんとしたデートって全然できていませんでした。

そろそろ結婚したいという彼女に私も結婚を意識はしていました。
ですが、私は休息がなかなか取れなくていつも体調を壊すまで体を酷使していましたし、
C型肝炎の病状がかなり悪化していることを自覚していたことと、
8年前の治療では寛解できなかった経験から今度も治療がもし失敗したら
肝硬変→肝がんに移行することを覚悟していました。

晩期合併症を互いに抱えている小児がん経験者同士が夫婦になることへ
私自身さまざまな抵抗や不安を大きく感じていたのが現実で、
結婚をしたいと言う妻に心身や経済的なことが落ち着くまで
今は気持ちが固まらないから、待っていてほしいというしかなく
結婚をしたいけど…という気持ちと、結婚して大丈夫なのか…?
という板挟みの中にいました。

※小児がん治療時の薬や放射線等の影響が数年~十数年を経て身体障害や、
心機能、内臓やホルモン分泌異常等へと影響が顕れる症例
詳しくは、当ブログのカテゴリー“晩期合併症など”
または、
がんの子どもを守る会の発行資料 晩期合併症↓
http://www.ccaj-found.or.jp/wp-content/uploads/2009/03/leaflet16.pdf
をご参照ください。


私がこのような活動を始めた頃に結婚しないの?と聞かれた時、
“逆に例えて聞きたいけど、事故や故障で修理歴があって、少々調子の悪い車と
いまのところ何も問題ない車とあなたはどちらを選ぶ?”と聞き返したことがあります。
どちらも先の事はわからない。寿命が来るまで走ってくれるのか、
事故や手の付けられない大故障で廃車になることもあると思う。
でも、私の心の中にある正直な思いはよほどの理由がないと、
前者は選ばれないし、そのような思いを受け止めてくれる相手との
出会いや、そこから結婚へと至る過程は並大抵じゃないんだ!
と話したことがありました。

ちょっと、話がそれましたが…

そんなときに、昨年の10月10日に妻からの電話で「妊娠しているようだ…」
と聞いた時、正直驚きました。

翌日に産婦人科で検診を受けて妊娠3ヶ月と判明しました。
さかのぼってみると…
奏斗を授かったことに気づいていなかった私達はやっとの思いで約束した
遠くの大型遊園地でのデートで二人して絶叫マシーンに乗りまくってました。笑

結婚のことを話してるときに悩んでいたのが、私も妻もそれぞれ主治医たちから
生殖器への異常はないと言われていましたが、結婚してもこどもを授かることが
できるのか半信半疑でした。
しかし、私たちを結婚させてくれたのは奏斗を授かったおかげでした。

妊娠が判明してから5日後の10月16日に入籍をして結婚式場との打ち合わせをしたり、
結婚のあれこれを準備したりしてる矢先の11月6日。

二人で私の家から妻の実家へ帰るため高速道路を走行していたら私の前方で横転事故が発生。
その事故のために緊急停車した別の車に私の車はよけきれずに追突。

少しお腹の大きくなった妊婦の妻を乗せていたので、あまり速度は出していませんでしたが、
とっさに助手席の妻への衝撃は避けたいと思い左にハンドルを切り、
50~60キロくらいで運転席側だけを激しく前車にぶつけて停まりました。

衝突の瞬間、自分の死を覚悟しました。そして、妻とお腹の子だけは助かればと…

エアバックの火薬で白煙が立ち込める車内で、激しい衝撃を受けて意識が薄れていく…
ことはなかったので、隣に座っていた妻へ「大丈夫?ケガはない?」って聞くと、
妻は「お腹が痛い…」と訴えてきました。
シートベルトがきつくお腹に食い込み衝撃を与えてしまったのでした。

続々通り過ぎていく後続車に身の危険を感じて、妻を抱えて車外に避難。
自分も体のあちこちに痛みを感じていたけどそれどころじゃない。
外に出ると最初に横転した車から出火して炎上中。
爆発の危険があるとあたりは騒然。
すぐに駆けつけたNEXCOと警察の対応で消火されて、
だれも犠牲になることはありませんでしたけど…

事故の地点からとにかく妻を抱えたまま追突した相手の方と一緒に遠くまで走って逃げました。

妻を安全なところに寝かせて消防に連絡を取り救急車の手配をするも高速の出口に近く、
管轄の事情ですぐに来れない場所とわかり、たまたま近くにいて駆けつけた
パトカーの警官へ事情を話し、料金所の出口を出て一般道まで運んでくださいと依頼。

警官もすぐに対応してくれて、私は妻とともに救急車で病院まで運ばれました。
救急車の車内で妻の手を握りしめて、とにかく母子ともに無事であることを祈りました。

検査の結果、お腹の子は無事でしたが妻は飛んできたガラス片で顔に小さな切り傷を。
私は頸部むち打ちと腕と足に打撲を負い、どこへ行くにも一緒だった愛車を失いました。

いつもどおりの忙しい日常に加えて、ケガの治療や結婚式の準備、事故の示談交渉と、
恐ろしく激務な日々が結婚式を終える頃まで続きました。

とにかくたくさん車で走る私は車の保険だけは手厚くしていたので、
事故処理もいろんな事が結果的に良い方向へと進みました。

ようやく結婚式を終えて、事故処理も終わり落ち着き始めたころに
今度は自分の体の異変に気づきました。

思うように体が動かず、倦怠感と微熱と気分の悪さを感じ血液検査をしてもらうと
予想していた以上に肝機能が過去の経験にないほど悪化していました。

今も私は週4日仕事をしながら、毎週通院をしてC型肝炎の治療を継続中です。
その中で、妻が出産を終えて母子が退院をしたらこれから子育てが始まるのですが、
私たちの心にはたくさんの不安があります。
でも、同じくらいに希望も夢もあります。

小児がん経験者が病気の経験をしたことのない方と等しい生活や生き方を…
というのは人によって個人差が大きいですが、私たち夫婦が小児がん経験者として代弁するならば、
理想であって、決して簡単ではありません。

でも、苦労をたくさんしてるだけ、私たちが感じるもの、
観るもの、聞くことはとても深くて、広いものだとも思います。

過去は変えられない。
でも、未来は変えていける。

とても濃く、波乱ばかりの私の生き方ですが
“どんな困難も投げ出さなければ乗り越えられる…乗り越えられない悩みなんてない”
ということを奏斗の誕生や妻の頑張りから改めて教わりました。

どんな家庭でも“まさか”を乗り越えることで家族の絆やひとりひとりの心が磨かれていると思います。


私たち家族も今日がめでたしでも、また明日から新しい日々がはじまる…。
前に進む勇気を失わないで、新しく訪れる毎日をひたすら懸命に笑顔で生きること…
それが私たちの目標です。


長男 奏斗です。

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小児がん経験者の視点から見る今後…その2
2012年05月09日 (水) | 編集 |

どもども、しろ~時々シロップです。

GWは良いことも悪いこともさまざまニュースで飛び交っていましたが、
みなさまはいかがお過ごしになりましたか?

九州北部は25度を超える陽気になって、暦でいう立夏を超えて日差しの強さを肌身で感じます。
連休明けから仕事場の作業着も夏服になりました。

前回のテーマの続きをと思ったのですが、先に書きたいことがありまして。


今回取り上げるテーマは…

成長著しい情報化社会と小児がんのこどもたちと医療のあり方


です。

テーマが難しいと思わないでくださいね。


私も利用しているスマートフォンやPCはとても便利ですね。

キーワードを入力して、検索をすればその場で知りたい情報がすぐ手に入ります。


私は現在C型肝炎の治療中ですので、毎日治療薬を服用しています。

試しに、自分の飲んでいる薬を検索してみます。

すると、薬局でいただく処方薬の能書には書かれていないような

薬の主な作用

薬の主な副作用

薬価

どのような病気の治療に用いられているか…

などなど

事細かな情報を手に入れることができます。


薬局の提供する書面の情報量がいかに少ないかがよくわかります。

同じように、

病院の中で医療者が使っている医療用語も、隠語も、

その気になれば2、3分で調べられます。



2年ほど前のことでしたが、とある研究会でこんな発表にて、

10歳程度の血液がんを患ったこどもさんのことが演題にあがりました。


医療者側は家族の同意のもとその子には、病名をウソを言わないで正しく告知した。

告知を受けた子どもさんは、“自分はがんなの?”とストレートに聞き返してきた。

そこで医療者は、その子に余計な心配をしてほしくないと思ったので、

(本当はがんなのに…) がんじゃないよっと伝えた。


後日、その子は自分の病名をPCで検索した。

そこには、はっきりと自分の病気の説明のなかに“がん”という文言が

記載されていました。

「やっぱり、自分はがんだったんだ…」

それから、その子は一気に医療者や家族の言葉に不信を抱くようになり…。

大人たちは信頼を取り戻し、安心して治療を受けてくれるまでのプロセスに

大変な時間と苦労を費やすことになってしまった…

というとても印象に残った事例でした。


いま、がん治療を実施している大きな医療機関は、

公益財団法人 日本医療機能評価機構※詳しくはリンク先を御覧ください。

の示す指針に基づいて、

医療の質の向上と信頼できる医療の確保を目指して取り組んでいるのですが、

自分の病気の治療方法、

検査結果の内容などの情報の公開

守秘義務や個人情報の保護

医療者と患者のパートナーシップ


など、病院の運営のさまざまなハードとソフトの改革に迫られています。


みなさんが病院に行くと、待合室などの壁に

「当医院では患者の皆様に安心して治療に取り組んでいただくために云々…」という

ことが書かれてるの見たことありませんか?

そう、それです。

病院機能評価を意識して書かれていて、

医療者も新たに設けられた様々な取り決めに、

いろいろと苦労しているのだな…と感じるわけです。



その中で、私が懸念しているのは、小児がんの子どもたちが、

先ほどの事例のように、自分がされている治療や、使っている薬の情報、

自分の目の前で飛び交う医療者たちの言葉や、

自分と同じ治療をしている他の告知をされている子どもたちからの

情報を手に入れた時…


ニンテンドウDSやPSPを大人以上にサクサク扱える子どもたちにとって、

大人の私たちが想像している以上に、この数年で著しく自分の病気のことを

調べたり、知るきっかけが増えているのではと心配しています。


“それほど心配しなくてよいのでは?”とのご意見もありますが、

原発事故の例をあげてみましょう…。

一部の意見者や専門家たちが訴えていた万が一のリスクを

“大丈夫、安全だ”といって説き伏せて、運転を続けた原発が事故を起こし、

こぞって飛び交ったのは“想定外でした”だったでしょう?



私は6歳で“急性リンパ性白血病”だと告知を受けていましたが、

まわりの告知をうけていない子達から“しろ~くんの病気はなに?”

って聞かれるたびに、自分の病気の事実を知っているけど、

真実をけっして言ってはいけないので、

なんとウソついて答えるべきなのかその都度真剣に悩みました。


つい、2、3年前まで、私たち、小児がん経験者たちの集まる会合で

話題の中心になっていたのは子どもたちに病気を正しく告知するか、否かという

議論が大きな課題になることがしばしばでしたが…


もはや、告知をする、しないという議論をしている場合ではない

…そんな時代に突入してしまったのでは?

きっとこれから先、どこの病院でも先ほどの事例の子のようなことが

起こってもおかしくないんじゃないか…と懸念しています。




PS

雑な記事になったと思ったのですが、

私が伝えたいことが伝わりましたでしょうか?


それでは、また。



追記

コメント欄で、ご質問がありましたので、
こちらにご説明を付け加えさせていただきますね。


私は6歳で“急性リンパ性白血病”だと告知を受けていましたが、
まわりの告知をうけていない子達から“しろ~くんの病気はなに?”
って聞かれるたびに、自分の病気の事実を知っているけど、
真実をけっして言ってはいけないので、なんとウソついて答えるべきなのかその都度真剣に悩みました。

…のくだりのところですよね?

私の両親は告知に強く反対でした。
でも、兄(当時20歳)がその両親を説き伏せたのです。
3年も辛くて痛くて大変な治療をしないといけないのに、
真実を伏せて治療をしてもしろ~が耐えられないと…。

兄が告知をしてくれたおかげで、
私は自分の病気がちゃんと治療して治さないと死ぬ!
という言葉を告知の中でストレートに聞きました。

白血病=治さないと死ぬ

6歳の私が受け止めた言葉でした。

そして、病棟では私と同じように髪の毛が無くなり、
高熱を出し、鼻血でシーツを血まみれにして、
同じ点滴をして、同じ検査をしているこどもがたくさんいましたが、
その子たちのほとんどが自分の病気がなんなのか知りませんでした。

私がだれかからしろ~くんは病気なに?って聞かれたときは、
私は黙って答えなかったり、テキトーなことを言ってはぐらかしていたのですが、

ある日、他の患者やお母さんたち、そして私の母のいる大部屋で遊び相手の実習中の医学生に聞かれたんです。
「しろ~くんの病気はなに?」って。

その頃は、医学生と医者の区別が幼い私にはわからなかったんですよ。
ドクターも、学生も形はちがえど白衣を着てましたから。
主治医のドクターよりまだ若いだけで、同じ医者だとしか思ってませんでした。

私はいまでもはっきり覚えてますがその瞬間にイラッとしながらこう思ったのです。

「なんでこんなところで聞いちゃうの?」
        &
「医者のくせに、なんでおれの病気のことを聞いてくるんだ?」って。

聞かれた意図がわからなかったんです。
でも、その頃から先生や看護師さんには協力できることはしたいとすでに思っていたので、
言いたくなかったけど素直に答えたんです。

廻りに聞こえないように耳元で「…白血病」と。

でも、廻りのこどもたちの声がさわがしくて聞こえなかったのか
その学生は「え?もう一度!」と聞きなおしてきたんです。

さらにイラッときて、
ついついデカイ声で怒りながら、「白血病!!」とハッキリ言っちゃたんです。

一瞬にして、廻りの空気が凍りつきました。

廻りの母親は目が点。
廻りのこどもたちは???
うちの母はマジギレ。

学生は、その空気を感じてそそくさと部屋から退散。

のちほど、母からこっぴどく怒られました。
誰にも言うなってあれほど言ってるのになんで言うの!って。

「だって…」

でも、学生に言ったことが悪いのではなくて、
大声で言ってしまったことが悪かったということと、
廻りのこどもたちが自分の母親たちに
「ね、白血病ってなに?」って聞いていて、お母さんたちが迷惑そうに
こちらをジロ見しながら、こどもにテキトーな言葉ではぐらかしているのをみて、
私は自分のやってしまったこと…の事の大きさに気づいたんです。

それからは退院するまで、白血病という言葉をけっして病棟の中では口にしませんでした。
でも、仲間が亡くなったときに、母に聞いてました。
「あの子の病気はなに?」

母は、ウソはつきませんでした。
違う病気でも、私と同じ白血病であっても。
だから、自分の病気が治らないと死ぬという現実を私は常に肌身で感じていました。

自分が感じている不安で恐ろしい気持ちを他の子は
知らないほうがいいのかも…。
そう思っていました。

当時の病棟は、小児がんの子どもたちばかりといっていいほど、
専門病棟的なところでしたし、現在のように
治るようになった時代。ではなく、
多くの子が助からない時代…。でした。
ほんとに、過言ではなく、次から次へと入院してきた仲間たちが亡くなる時代でしたので。

この事件の前は、ただ 言ってはいけないこと。
理由はいまいちよくわからんが…。

事件後は、
どうして言ってはダメなのかをようやく肌身で感じたから、
絶対言わない。


という心境の変化の違いがありました。


こんな説明でわかりましたか?

もっと詳しく背景をお知りになりたければ、ぜひ、
当ブログのカテゴリー“闘病の記憶”↓をご参照ください。
http://kurumesmiledays2525.blog107.fc2.com/blog-category-13.html


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