小児がんと向きあう方々とともに…
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地方行政と企業と私
2010年01月22日 (金) | 編集 |

こんばんは。 昨日から嘔●下●症になってるしろ~です。
ちまたのちびっ子たちの間では流行っているようですね。
私はもう回復傾向にあります。ご安心を。

さて、今日のお話。





先日、福岡県‥ではない別の地方の県議会議員さんと懇談をしました。
小児がんへの関心の深い方で、私が以前に差し上げたゴールドリボンを胸につけて、
いつもお仕事をしてくださっています。

先日お会いしたときに、

某議員:県で小児がんをテーマにアクションを起こしたいのだけど、
    いまどんなことが問題なのですか?

しろ~:晩期合併症、就労、生命保険加入などいろいろありますが‥
    地方行政に取り組んでいただけるとしたら‥



私(しろ~)からの提案

今も小児がんと闘っている人が全国でたくさんいて、多くの方が
亡くなっていた数十年前と比べて、近年、治療成績が向上して
小児がんは治る!と言われる時代になった。

小児がん生存者(サバイバー)もしくは、小児がん経験者と言われる
治療を終えて生きている元患者たちの人数は日を追うごとに増えています。
しかし、助かる人が増えてきたことで、新たな問題がどんどん出てきています。

私のように、普通の人と変わらないまでに社会復帰を果たしている人もたくさんいます。

しかし、一部の経験者には、身体障害者手帳や、療育手帳など交付対象とならない程度では
あるものの、体力の無さや、低身長や筋力の低さなど身体的苦労や、臓器や内分泌の機能低下
などで悩んでいて、生活や就労に困窮している仲間もたくさんいます。
健常者と障害認定者の間にあって苦労している人にも目を向けてほしい。

日本の社会の仕組みでは手の行き届いていない社会困窮者たちは、
小児がんに限らず、大人のがん、その他の疾患にも同様にあるはず。

景気悪化、少子化、高齢化社会ということもあり、国は税収減、
地方行政も同様に財源に苦しんでいる。

私たち小児がん経験者の支援を税金による補助などで負担することに、
国や地方は素直に首を縦には振れないのが実状でしょう。

保障の枠組みを増やす!という発想では無く、働きやすい環境を
整備して、私たちが自立しやすいように、そして、税金を少しでも
地方や国に収められる様に変えてほしい。

その為に、

当事者は就労が困難だけど、でも少しでも働きたい!と生の声をあげ

行政がその言葉を受けて環境を整え

地元企業が理解を持って雇用に協力し、企業は利益を上げて

雇用された労働者の所得が増えることで当事者は税金を納める側になり

地方行政は税収が増える

この地方行政と地元企業と当事者の環境整備ができてほしい。

この仕組みを国に働きかけてもなかなか環境が整備されない。

だったら、地方行政がパイロットプロジェクトとして
モデルケースになって国を動かすさきがけになればよいのでは?


‥と、浅はかな知識と熱意でお話をしました。

しかし、その議員さんは主旨を理解してくださって、行動に移すべく、
翌日からさっそく資料集めに奔走してくれているとのことです。
どこまでできるのかはわかりませんが、少しでも形になることを願っています。


明日、福岡県のがん対策に関するタウンミーテイングが開催されます。
私たちスマイルデイズのメンバーも集って参加します。

一人の声からだって国の仕組みを、行政のあり方を、国民の心を変える力に
なりうることを過去の歴史は証明しています。

一言が、笑顔を作ったり、泣かせたり、怒らせたり、悲しませたり、
人を幸せにも、不幸にもする。

声って、言葉ってとても大切。

私も、タウンミーティングへ出席します。

明日は一言に全力を注ごう。

私のために。 仲間のために。







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僕のいまの死生観
2009年07月06日 (月) | 編集 |

こんばんは。しろ~です。

タイトルを観て、重たいタイトルだな…って
思った人もいると思いますが堅苦しく思わないで
さらっと読んでほしいなって思います。
っても、かなり長編の記事ですが…





最近、ある看護学生さんに卒業研究のインタビューを受けました。
そのインタビューの後、看護学生さんと生死や病のことについて
しばらく対話をしました。

病気のことは、私の体験をたくさん聞いていただいたのですが、
病や生きる事に対話してると、死についても話をしたくなったのです。

私は、学生さんに
「死をどのようにとらえてる?どう感じてる?」
って率直に聞いてみました。

その学生さんは、いきなりの質問に困惑していましたが、
「身近な方が亡くなった事や人の死に立ち会った経験がまだ無いんです」
と言ってくれました。
20代前半の人にとっては、経験の少ない方が多いでしょう。

そこで私は、
「人が死んだらどうなると思う?どう考えてる?」
と次に聞いてみました。

すると学生さんは
「どうなるんでしょうか…無になるのでしょうか…?」
と応えてくれました。
20代前半の人にとっては、真剣に考えることはあまりないでしょうね。
いろんな知識の中での死のイメージを並べて話されるより、
学生さんが素直な気持ちで率直に口に出した答えなのだと私は感じました。

日常生活でいろんな場所で死を意識することや、
生と死が隣り合わせにあって、自分が生きている事が
当たり前ではなくて、むしろ不思議なことなのだと
感じる人はそうはいないだろうな…と私は思いました。

私の場合、いつも死を意識して生きています。
具体的なたとえを言えば…
しろ~は高速道路を走っている時、
5秒後に事故で私は死ぬかもしれない…とか、
高所作業をしている時に、ここから落ちるかもしれない…とか、
ふとした瞬間に“死”が頭によぎります。

ネガティブな発想で考えているのではなく、
この場合は危険予知の範囲でしょうが、
安全への配慮を怠れば、必ず死がそこに待っている
といつも感じるのです。

私は、自分のいま思っている死後について、
学生さんにお話をしました。




私が死んだら自分の体はたぶん火葬されるでしょう。
体の水分は水蒸気になって空気に溶け込んで、
やがて雲になり、雨になって、海へと流れ、
この身は灰になって、土になり、大地へ帰っていく。

骨に魂が宿るわけではなく、骨壺に納められても、
数十年も経てば骨もやがて水のようになってしまう。

もし、火葬されなくて、この体が形を残していても、
生きているいまだって自然の一部だととらえるなら、
死んだあとの体もやはり自然の一部だと考えてます。

いま生きている私の体は、何処へ行くにもお金がかかるし、
時間も必要だし、移動すれば体は疲れるし、仕事休まないといけないし、
お土産とかにも気を使うし…いろんなことに縛られて、いろいろと不便です。

しかし、生きてるから苦労できるわけで、苦労してはじめて、喜びも感じれる。
苦労も涙も、感謝も、喜びも、笑い声も、この体が生きてるからこその生の証。
その生きているうちに積み重ねた経験や価値観がそのまま意識として、
死後も残るのかな…?だったら、生きている今を一生懸命に生きていこう。

しかし、ほんとのところ意識(魂)って死後はどうなるんだろう…?

死を迎えて、肉体から意識が離れ、生きている時のままの
意識を保って自分が死後を迎えたのなら…。

生きてるときには行けなかった世界中の国々や、
見てみたかった沢山の風景を、宇宙の星々を、
風になって、空気になって、水になって、火になって、
土になって、光になって、闇になって、旅したいなぁ…。

私を思い出した人、私の名前を呼ぶ人がいれば、
見えていなくても、そっと寄り添ってそばに居てあげたい。

私も、飼ってた生き物や、親しかった方、友人、
父親とたくさんの方々とお別れをしてきました。

自分と縁があって、亡くなったすべての方たちに、
私が思い出したときに、そばに来てほしい。
独り言で話かけたときに、私の言葉を聞いてほしい。
目には見えなくても、その存在を私は感じていたい。
だから…私もいずれ死んだときにはそう在りたい。


自分の寿命が長いのか短いのかは私にも、もちろん誰にもわからない。
どんな死に方を迎えるかだってわからない。
死に方も周りにいる人に残す影響がさまざまだと思う。
痛々しい、むごたらしい、悲惨な死に方は、僕も望まないし、
残される人にも悪い印象を多く残すかもしれません。

私は、たくさんの方々の死に縁があって死の残すものを学び、
そして父の病死を通して家族の立場での死を学んだ。



亡くなった本人も、家族も、死を迎え、受け入れるまでに
キュブラー・ロスの提唱している死の受容5段階を経験
するのではと私は思います。

キュブラー・ロスの死の受容5段階は、
医療関係者なら多くの方がご存じと思いますが、
このブログを読んでる皆さまにはなんだそれ?と
聞き慣れない方もいると思いますので、
簡単にですが記しておきます。

※医療関係者ではない私の表現の仕方で書いていますので、
  医療関係者の方の見識や表現は異なるかもしれません。
  あらかじめご了承ください。
  詳しく知りたい方は、エリザベス・キュブラー・ロスの書籍や、
  WEBなどで調べいただければと思います。


死の受容5段階とは…

死を宣告(余命の告知)された病人が死を迎え入れるまで、
否認 → 怒り → 取り引き → 抑うつ →受容(死の受容)
という段階を辿るということ。

最後の受容にたどり着くまで、上記の1~4段階は
複合的に重なったり、行ったり来たりもします。

第一段階の“否認”は
「自分が死ぬなんて!そんなはずはない!!」と否定をし

第二段階の“怒り”はどうしようもない、やり場のない怒りや憤りに
心(いのち)が乱され

第三段階の“取り引き”では、信仰の有無に関わらず、苦痛、
恐怖のない死を迎えたい、もう少し長く生きたいと神頼みをしてみたり、
医療従事者や家族などに取り引き(見返りや約束)を行い

第四段階の“抑うつ”は、死(病)を意識(感じる)して喪失感が増し、
人との別れや、今世への未練や死の恐怖などから抑うつ状態になり

第五段階の“受容”で、穏やかに、静かに自分の死を見つめ、死を迎える。

亡くなる人も、家族も、それぞれの立場で同じようにこの
5段階を経験しているように私は…感じました。

いま、生きている私は…最期の受容の時が少し先に
伸びているだけだとも受け止めています。

事故や、突然死で即死したら、こうした段階を踏まないのか?…
死に際の一瞬に全部巡ってくるのか…私にはわかりません。

以前にも書いたことがありますが、私は病で亡くなることって、
老衰などで静かに永眠するのに限りなく近いと考えています。

私や家族は静かに息を引き取る父の最期の姿にそう感じたのです。




でも、突然死や、事故死の方々だって、見る側、縁する側が
“気の毒だ”とか、“かわいそう”って思っているだけで、
生きている間にたくさんの人を救った善人が最後の最期に
悲惨な死に方をしたからといって不幸だと決めつけるのも疑問だし、
逆にたくさん人を騙し、殺し、いじめて、不幸にさせた人が、
安らかな死を迎えたからと行って、幸せな人生だったなんて
認めたくなんかないし…。
死に方だけで幸・不幸を決めつけている価値観そのものに、
私は誤りがあると思うし、不公平だと感じています。


「人は、生きてきたようにしか死ねない」
私は、その言葉を不思議と納得しました。

たくさんの人の死で学んだ事の点と点が線になり、
線と線が面になった気がしました。





日本人の文化や歴史の中で、死はいつも身近にあったはずなのに、
現代では死を語ることそのものがタブーのようになってるというか、
限られた環境や機会でしか語らない、語れない、触れないような気がします。
生きてる私たちは、必ずいつか死を迎えるのですから、
死を意識することはいまからだって早すぎるとは思えないのですが…。

そうそう

冒頭の看護学生さんから後日連絡がありました。

「人の死にぎわに接しました…」
同じ時間の中で、生きている人と
息を引き取った人、悲しみに落涙する人…
学生さんは、その死に接してなにを学んだでしょうか…



最後に…。

私たちSmileDaysのリーダーN氏は、
“小児がんの子どもたちと生きる”
という本のなかでこう述べています。

「死生観を、年齢に応じて養っていく必要があると思う…」と。

私も月日の経過と共に死のとらえ方は変化してきました。

これからも時間の経過とともに私の死生観は変化していくと思います。

ブログで死をテーマに記事を書くのはかなり勇気がいります。

思想や、育った環境の違いなどもあるので、賛否両論あるとは思います。
ただ、私は読んでいただいたみなさんが、死を日常のなかで意識したり、
まじめに考えてみるきっかけになればと思って書いてみました。



小児がんの子どもたちと生きる小児がんの子どもたちと生きる
(2004/10)
毎日新聞小児がん取材班

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星を見るたびに思い出す亡くなった友人がいます。
星を見るたびに思い出す亡くなった知人がいます。
星を見るたびに思い出す亡くなった父がいます。

昨年、天の川を見ました。
亡くなって、星になった方々を心に浮かべました。

明日は七夕ですね。


あなたは、自分の死を意識した事ありますか…?






追記

この記事を書き、掲載するまでに何十回と読み直し、
訂正して、訂正して、訂正して…それでもまだ至らない
ところがあると思います。
もっと、上手に表現することも、もっとふさわしい言葉も
きっとあるでしょう。

でも、今のしろ~にできる精一杯の想いです。
読み返しながら、目には涙がにじんできます。
至らない点…ご容赦ください。



おわり




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